画用紙を真っ暗に塗りたくって、黒っぽい色を作るだけで労力がかかるんだけど、それを幾度も無くしては作って。白かったところが全部なくなって、絶望的だなと思うくらい塗りたくって、やってくる失意のようなものにまかせてそれを眺めることがあった。もうその時にはそれは自分の一部になっていて、眺めていると見えてくるものがあって、それがたまたまなのかわからないけど、木だった。毎回、木だった。
外から取ってくる木ではなくて、元からそこにあったものが、浮かんで来ただけだから、描くことに造作なかった。浮かんでくるままに描くだけだ。ばうむとゆう言葉に、そんなことを込めた。
珈琲を淹れる時、豆をさわって匂いを嗅いでいると、この豆がどんな木にどんな風になっていたか、とか、膨らんでる時は喜んでるな、とか、不本意そうな香りを出したりとか、まだそんなところに僕は立っている。この豆が喜ぶ淹れ方ができれば、美味しいはずやから。焙煎機なんか買って、焙煎を本格的に始めたりしたら生豆には触るわけやし、もう信じられへん。広がり方が。
店始めのときにあるお客さんに「珈琲はそこそこの味やったらそれでいい。」って言われて、その「そこそこ」すらわからないから、ひきつった顔でにっこりしたことを思い出した。
一杯の珈琲が気持ちを落ち着けてくれることを知っている。一杯の珈琲が今日の出来事のような苦さになることも。珈琲が、多くの人の言い訳になっていることも。きっかけになっていることも。紅茶もしかり。
僕は皆が極めているようにはできないんだろう。もうすでに欠けているものにも十分気づいているから。それでもやっぱり珈琲を淹れること、誰かのために淹れることも、止められないし、それが辛い時も楽しい時もある。